生きることの意味、伝えるという役割。。。
遠方の現場が続く中、「行為の庭」「。の庭」をアップする余裕もなくあっという間に一ヶ月という時間が過ぎてしまった。
そんな中、昨日 雑誌「庭」の取材が終わった。
メディアへの露出が増えてきた最近、この縁に恵まれた状況が何を意味するんじゃろうかといつも考える。
それは、実は今に始まったことじゃない。このブログをはじめた時、ずっと悩んどったことでもある。
薄っぺらな情報が蔓延したこの世の中で、いったい何人の人が本質を見極める事ができるんじゃろう・・・
勿論、おれが本質を見極めとるんかどうかはわからんし、そんな偉そうをいうつもりもない。
しかし、何人の人が「庭」というキーワードの元、心をうつ事ができるんじゃろう・・・
この忙しい世の中で、「庭師」という職業につきながら、何人の人に「心のゆとり」を与えてあげることができとるんじゃろうか・・・
自分の身近にいる人ですら、庭師という仕事がどういう仕事なのかわからない、おれが何をしとるんか知らん。
それじゃいけんと思い、ブログをはじめた。
オレは、庭譚という屋号の通り、庭のストーリー性を重視してきた。
それはクライアントが、このストーリー性により自分の庭である事を認識してもらう為である。
それは、庭を大事にするという行為にも繋がってくる。
そこには、1分でもいい、30秒でもいい。自分が作った「庭」を眺めるという「心のゆとり」をプレゼントしたいという想いがある。
庭師という職人は多くを語らず「見ればわかる」。そういって今まで過ごしてきた。
しかし、その結果どうだろう。
どれほどの「いい庭」「いい景色」が壊されてきたか・・・
建築業界に押され、スペースはなくなり、庭の領域が狭くなってきている現実を見て見ぬ振りしてきたんじゃないか。。。
感覚でつくる。もちろんその通りじゃ。
でも、それを語らない事でこわされてきたものがどれだけ多いかとオレは思う。
何も語らず、「見ればわかる」でどれだけの人が本当にわかるのだろうか・・・
わからんやつはほっときゃいい。
ほんまにそれでえーと思うか?
オレはえーはずがないと思う。
オレがなぜこの「庭師」という職業にありつけたのか・・・
それは、先人が「日本の庭」というものを追求し続けてしてくれた結果である。
そう、日本の「文化」である。
俺らがしとる一つ一つの行為が「文化」になるんじゃ。
今はわからん、そんなことも考えてないかもしれん。
でも、「文化」って何気ないことじゃ。
今、「マイ箸」がブームになっとるけど、これが百年二百年、千年続けばそれは「文化」になる。
何気ない一人の思いつきが「文化」に変わっていくんじゃろ。
でも、「文化」になりえるには「続ける」ということが不可欠じゃ。
「庭」というものがこの日本の「文化」じゃけーこそ、俺らは食っていけとる。
その「庭」が危ない局面に、おれはたっとると思う。
建築家が外構を設計するという現実が、実際にあるわけじゃろ?
大工の棟梁が建物を設計していた時代に「武田伍一」という人が現れ、建築家という職業ができた。
それは、建物というモノを言葉に換えるために相当勉強したに違いない。
勿論、「庭」というもののすべてを「コトバ」で説明することなんてできんじゃろう。
しかし、キャッチコピーみたいなもので、人の心を傾ける為の「コトバ」をつくることはできるとオレは思う。
良い職人ほど語らない。。。
それじゃ今はまずい。
だって、いい職人じゃないとは言わないが、「コトバ」で仕事を取ることができる情報網ができてしまったから。。。
「庭師」という仕事に出会い、「文化」の真っ只中におかれたオレらの役割。。。
それは、「庭師」が「庭」をつくるということ。
そして、「庭師」が「まち」をつくるということ。
しっかりとした信念の中、一生懸命「庭」の本質に挑んでいる人たちはもっと「伝える」べきじゃとオレは思う。。。
そして、この「伝える」ということの為に、自分の仕事を「コトバ」に替えるという行為が非常に重要じゃということ。。。
一人でいい。
自分が発言することで心をうってくれる人が一人でもいればそれでいい。。。
自分が追い続けている「庭」という世界を軸に、「庭師じゃけー感じることができる事」を、一人でも多くの人に「伝える」ことができればそれでいい。
オレが何かを「伝える」ことができるとすればそれは「庭」でしかない。。。
どんな職業の人に対してであろうとも自分が発言することは「庭師として考えることのできた自分」の「コトバ」じゃと思う。。。
しかし、そこに通づるものは必ずある。
それは、本質を常に「コトバ」にかえる努力を惜しまない事、自分の考えを「コトバ」にかえる努力をすること・・・
それは自分の「庭」を「コトバ」にかえることからはじまるんじゃないかとオレは思う。。。
メディアに露出するということ。。。
それは、光栄なことじゃ。
しかし、それ以上に「責任」があるということ。。。
自分が自分の為に生きているんじゃないことを実感させられる。。。
先人達が託してくれた「想い」を次に「伝える」ための駒の一つに自分がなれればこれ以上の幸せはないと常に思う。。。。。