長期作庭中の現場は、材料待ちでもう少しというところで中断。。。
ここ最近は、まだ回れていない手入れに回っている
優しいクライアントでみなさん何も言わず待ってくれている
ほんとに感謝の気持ちでいっぱいの中、この時期にふさわしい鋏を入れていく
少し手入れについて書きたいと思う。
これは、あくまで自分自身の考え方であり、すべての庭師がそうでなければならないと思っていないのと、だれを責める気持ちもないので参考までに読んでほしい
ある出来事があった
庭の手入れというのは、クライアントと長い間のお付き合いになる
若かったクライアントも段々歳をとり、管理していくことが苦痛になってくる方もいらっしゃる
先日こんな事があった
「もう大変だからあの大きい樹を軒下くらいのとこでぶち切ってくれ・・・」
「はぁ・・・」
おれは何となく寂しい想いになったが切ってくれと言われた現実も受け入れざるを得なかった
長い付き合いの中でその状況も来るだろうと予測していたからだ
一旦その言葉を飲み込み、「わかりました」と返事した
実はその時の僕の心の中は悲しさと悔しさと申し訳なさで力が抜けるほどがっかりしていた
庭師の手入れというのはどういう仕事なのかを少しわかりやすく説明しときます
庭師、植木屋、造園屋・・・今は色んな呼び方がある
でも、僕にとっては呼び方なんてどうでもよく、何でもいいと思ってて、やっていることがみんな同じだとも思っていない
僕がやっていることは、空間のスタイリストみないなものなのです
手入れにしてもそう
庭や建築、背景の景色、そしてそれぞれの樹木の成長具合から空気を読み取り、心地よい空間に仕上がるよう鋏を入れていく
そして、その樹木がその樹らしく育つことができるようバランスをとっていく
樹のスタイリストです
ただバスバス切っているように見えるかもしれないし、そういう人もいるかもしれない
でもそれは違います
樹は切れば切るほど不自然になり暴れる
ただ、その樹の性質を把握することができればその樹の成長を止めることができる
厳密にいえば、落ち着いて成長するので見にくい伸び方をしなくなるのだ
そうやって、その樹らしいその樹が一番かっこよく育つことができるように鋏を入れる
無理やりかっこよくするのではなく、その樹の個性を信じ伸ばすのです
そうすることにより、その樹は手入れした後の木の輪郭を崩さなくなる
結果、鬱陶しさがなくなるのです
以前の記事に書いているが、僕は2歳の時に二階の窓から転落し、一本のカイズカイブキに乗っかって命を救われた
その後その出来事を忘れるも、15歳の時に再び思い出すこととなる
その樹の伐採話が持ち上がったのです
子供ながらにそれまで思い出すこともなかった自分の命を救ってくれた樹を切ることに罪悪感を感じ、移植してほしいと頼み込みその樹は命を取り留めた
しかし、その樹を移植するため訪れた庭師にこう言われた
「こんな樹は移す価値がない。買ってきて植える方が安い。」
俺はむかついたことを今でも忘れない
それから5年後、また忘れていたその出来事を思い出すことになる
奨学金で大学に行きながらアルバイトが必須だった頃、大工という仕事を探していたところ縁ある方から庭師というアルバイトの話をいただいた
俺は何も考えず、どんな仕事かもわからなかったがとりあえず職人みたいな感じだしと思い「お願いします」と返事した
そこでの初日、手入れに行った現場でハッとする
その庭の骨格をつくる一番大事な主木に5mほどの大きなカイズカイブキがそそり立っていた
「あ・・・おれの命を救ってくれた樹だ・・・」
初日から鋏を渡され、カシャカシャ切っているうちに何か感じるものがあった
「これが自分の仕事になる・・・天職かもしれない」
不思議とそう思った
それから、楽しくまたとても厳しい過酷な修行時代が始まった
修行時代の話や、NIWATAN という屋号にした理由も以前書いているのでそれを読んでほしい
今日はそのことは省きます
それからは色んなことがあった
そんな中、多く考えさせられたのが人々が持つ「樹」に対する気持ちでした
あまりに鬱陶しいと言われる樹が多かったのです
ずっとそれを聞いているうちにだんだんとその樹たちのことが可哀そうに思えてきた
その言葉を聞くたびに、どうにかこの樹たちを褒めてもらえる樹にできないかと考えるようになるのです
独立してから、従来親方から教わった鋏の入れ方を少しずつ変えた
樹の成長に合わせた鋏の入れ方にした
手入れに行っても、切らなくていい樹は鋏を入れない
一本の樹を眺めその判断を自分ですることも手入れの一つの仕事だ
クライアントにとっても手入れするお金もゴミ代もかからないわけだからいいんです
そうやって樹と真摯に向き合ううちに、樹の気持ちがわかってきたというか、性質がわかってきた
すると、樹の成長をコントロールできるようになった
結果、鬱陶しいという言葉は聞かなくなり、伐採してほしいという案件もほぼ無くなった
「俺は今、樹の命を救ってる・・・
俺があの時命を救われたのはこういう事だったのか・・・」
樹の気持ちを代弁できる職業は庭師以外にはない
自分がそれに気付き、感じることができるなら、それを伝えられるのは自分しかいないのかもしれない・・・
そう思うようになった
もちろん、それは樹のことだけではなく、石、素材、自然界のあらゆることを・・・
樹の命を救う
これは、ただ単に生かしておけばいいわけではない
かっこよく生きてもらいたいのです
おれが、自分なりに自信をもって「お前はかっこいい」と言えるように育ててあげたいのです
で、先ほどの話に戻りますが、「ぶち切ってほしい」・・・久々に聞いた言葉でした
それを聞いた時のおれには二つの気持ちが浮かんだ
一つは、その樹を守れなかった自分の技術と言葉の無さに樹に申し訳ない気持ち
もう一つは、「このままぶち切るという気持ちでは切れない」という気持ち
おれはクライアントを呼び、言葉をかけた
「軒下部分で切ってもまた3年もすれば元の大きさにに戻ります。しかも不格好な伸び方で。僕はそんな姿になるこの樹が可哀そうに思います。人間で言えば、裸にされてダッサイ服着せられて立たされるようなもんです。だから下から切ります。今の時期なら下から切っても吹き返します。そして、この樹らしくかっこよくコンパクトに裁いていきます。それでいいですか。
ただ、一つお願いがあります。あの樹を切る前に一度、樹に頭を下げてください。今まで100年近くこの家で育ってくれたんです。切らなければならない事情は理解できます。樹もきっとわかってくれます。これを植えたご先祖様も、もちろんあなたたちのことが大事だと思います。だから、あなたたちの選択は間違っていません。僕も嫌なわけではないんです。ただ、この樹にありがとうと感謝の気持ちを持ってください。ぶち切るという言葉は使ってはいけません。これは気持ちの問題です。樹も生きています。。。」
そう語りかけ、そしてその後、僕がなぜ庭師になったのかを詳しくお話しした
そしてクライアントはしっかりと感謝の気持ちを樹に伝えてくれた
樹を伐採したり切ったりすることが悪いわけではありません
自然界では何かが生きるために何かが犠牲になりバランスが取れています
気付かず間違ったことをしているかもしれません
それも仕方ありません
でも自然に対する感謝の気持ちだけは持っていてほしいなと思うのです
それは人にも繋がってくると思います
私たちは人間界に生きています
だから、人々の営みは非常に重要で、それも守らなければいけません
人が鬱陶しいと思う気持ち、庭で感じるストレス、そう思う人が悪いとは思いません
人の気持ちというものは、教科書のようにうまくはいかないのです
そう思ったらそれが大事な気持ちなのです
その気持ちを解消させることも庭師である私たちの仕事なのです
それをどう、解消させるかがその庭師の力量で結果は変わる
その後の人生にもプラスになる出来事がその庭で生まれればそんな嬉しいことはないと思います
手入れは、そんなことも考え、鋏を入れていくのです
樹の成長をコントロールできればゴミの量が減ります
2年に1回の鋏でいい樹もたくさんあります
はじめの3年鋏を入れた後、10年鋏を入れていない樹もあります
管理費も無駄な使い方をさせたくはないと思っています
庭の管理には手がかかります
庭は必ず必要なものではありません
でも、絶対に必要だと思ってくださっているクライアント他、多くの人々がいます
その方々に感謝しながら、しっかりと真摯に手入れをしたい
その樹の良さ、石の良さ、空気の良さを最大限に引き出せる技術と感覚を磨きながら・・・
そして、その植物、石、自然の景色は多くの生きるヒントを持っています
もちろん、それを無理強いするつもりもありません
考え方はひとそれぞれでいいと思っています
ただ、せっかく出会えた人には、こういうことも伝える機会があれば遠慮なく伝えようと・・・
そんな想いで手入れをしています
少しコムズカシイ文章になりましたが、庭の手入れとはそんなものです。。。
人も自然も、自然にあることを受け止め、それをどう対処するかを考えていけばいいのだと思います
これはどの職業、生き方でも同じことがいえるかもしれません
今度はいつか 庭づくり について書きますね