先日、広島県立福山明王台高校で講演をした。
全校生徒950名くらいかな。
題名は「自然に生きる」。。。
一時間と言われていた時間はあっという間に過ぎ、結局1時間45分も話してしまった。
おれは、事前に話すことを決めておくのが苦手なんよ。
だから、みんなの顔を見ながら話そうとおもっとった。
とりあえずは、おれが何をしている人間なのか、どうしてここに呼ばれたのか・・・そんな話をした。
それから、高校時代から今まで、どういう道を歩んできたのか、これからどうしていくのか・・・など。
高校時代の話は、打ち合わせの段階でほとんどがNGとなり、ほぼ話すことができなかったが、その後の人生においては包み隠さず話した。
生徒たちははじめの話なんてどうでもよさそうだった。
が・・・
どういう道を歩んできたかって話になると、だんだん真剣に聞き出した。
おれはいろんなことを話した。
そんな中で何度も言ったコトバがある。
それは、「常識に惑わされないこと」。。。
「世の中の常識」というものの中には、元の「本質」というものが隠れている。
だけど、「コトバ」は独り歩きし、そのうち「本質」は伝えられなくなっていく。
「常識」を伝える人間も、歳も立場も関係なく、自分の立場を基準に発言していく。
それによって、いろんなことが歪んでいく。
このネットという媒体もその一つだと思う。
不特定多数の様々なレベルの人間が同じモノを見て何かを考える。
それはそれでいいんだけど、それがすべてだと思うならとても危険なことだとオレは思う。
世の中はとても便利になってきた。
ただそれを機に、大事なことが伝えられなくなってきているとオレは思う。
例えば・・・
「バリアフリー」このコトバを耳にすることはほんとに多い。
「完全バリアフリーです」って自信を持って言ってる人を見ると悲しくなってくる。
すべてにおいて悪いとは言わない。
でも、おれには「あなた一人で生きてくださいね」って聞こえてしまう・・・
「バリアフリー」って、ある意味「人と人との関わり」を無くしていくコトだとオレは思う。
人が周りを気遣い、手助けし、困っている人がいれば誰もが手を貸す。これが当たり前にできれば、特に公共スペースなど「バリアフリー」にする必要はないのに・・・って思う。
それができないから今の流れになってる。そう言い切ってしまうと、もう人と助け合うという文化は薄れる一方だとオレは思う。
多分、はじめは「ちょっと過ごしやすく」って程度だったんじゃないかなって思うんよ。。。
今、若い子の中でおれにとっては不思議なことが起きている。
もちろん、みんなとは言わないが、多くこんな話を聞く。
「安定」を求めている若者が多いということ。。。
先日も大学生と話をする機会があり、そんな話になった。
「安定」って何なんだろう。
こんな「不安定」な世の中で、「安定」なんてあるんかな・・・
あまりによくこの「安定」って「コトバ」を聞くからオレはずっと考えてた。
この世の中でもし「安定」があるとすれば、多分「安定」を求めてる子は何か勘違いしてるかもしれない。
「安定」というのは「歩き続ける」ということなんじゃないかな。
止まった時点で「安定」は無くなる。
それはなぜかというと、世の中が歩き続けてるから。。。
「安定」=「楽」ではないんよ。
そして、より努力して一歩一歩を先に進めることができる人間が、より「安定」していく。
多分その人は「安定」を求めてるわけじゃないんよな。
つまり、「安定」を求めた時点で「安定」ではなくなるんじゃないかってオレは思う。
なんか、だらだらと書いたけど、何が言いたいかというと、
「自分が思ったことをしっかりと受け止めて大事にしてほしい」ということ。
世の中でいう「あたりまえの綺麗なコトバ」じゃなくて、「本当の心の中にあるコトバ」を大事にしてほしいとおれは思う。。。
それは汚くてもいい。
ナマケモノでもいい。
そんな自分を理解できれば必ず次の道は見えてくる。
そこからまた、「歩き続けることができる幸せ」を感じてほしいと心から願う。。。
オレが高校生に最後に言った言葉。。。
みんな楽しく生きてほしい。。。
おれが伝えたいのはただそれだけ。。。
何か伝わればいいな。。。